2017年5月6日土曜日

連休だけどずっと家で本読んだり動画みたり音楽聴いたり


お題「惑星ソラリス」のつもり




あだきち君は、福祉サービスの支援外出でおでかけ。
あねぞうさんとほげ子さんは、二人でカラオケボックスに出かけて、さきほど帰宅。

夜は手巻き寿司の予定。


以下は休日に眺めたものを、つらつらと記録しておく日記です。φ(・_・”)


■試練とか受容とか



よく、「運命(神)はその人が乗り越えられるだけの試練を用意するものだ」とか、いいますよね。

出典知らないんですけども、いろんなところで、名言として引用されているのを見かける気がします。

障害児の親御さんは、わりと周囲の人に、これに類する言葉を伝えられたことが多いのでは内でしょうか。私も数回あります。

「この子たちは、いろんなことを乗り越えて育てていく力を持った親のところを選んで生まれてきてるのよ」

みたいな感じで。

つい昨日も、Twitterを眺めていて、この言葉が流れて行くのをみかけました。三浦綾子氏の言葉であると、添え書きがあったように記憶しています。


検索してみたら、どうやら聖書が出どころのようでした。

(そういえば、三浦綾子氏もキリスト教徒でした。ずいぶん前にエッセイ集を何冊も買い集めて読みました。代表作の「氷点」は未読。そのうち読もう…)






さて、「試練」についての言葉の元になっている聖書の一節を、引用してみます。


新約聖書 コリント人への手紙第1 10章13節


あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

私が記憶する限りでは、一般に流布している言葉は、「のがれる道」の備えについては、触れていない場合が多いような気がします。「乗り越えられるはずなんだから、逃げずに立ち向かえ」、そういう叱咤の言葉として、使われているものがほとんどです。

「のがれる道」が何かっていうのは、すごく難しいところだと思います。

少なくとも、“試練そのものの回避”じゃないですね、どう考えても。回避できるなら、耐える必要もありませんから。

信仰と縁がなく、人生をそんなに深くも生きていない私ですが、たぶん、この「のがれる道」というのは、自分自身にふりかかったことを受容する心なんだろうなと想像しています。

受け入れて、とにかく耐え切れと。

うーん、きついなあ。(´;ω;`)
人生って、基本、ブラックだよなあ。
死ぬまで逃げられないんだもの。

とはいえ嘆いてもしかたがないので、平時にはできるだけ淡々と、何か事がおきたときにはアドレナリンとかノルアドレナリンをカーッと分泌させて全力対応、ときどき休息。笑えるときはとにかく笑う。そうやって、なんとかやっていくしかありません。

いきなり死んだら、そのときはそのとき。(ガクガクブルブル…)
ものすごく痛くて苦しかったり、悲しかったりする時間は、できるだけ短く済むことを切に希望しつつ、用心して暮らします。

そんな感じで、いまのところは、運命受容できていると思います。
たいていの人は、たぶんこんな風だろうと想像します。


でも個人的に、いま以上の試練は遠慮したいところです。(祈)



(__).。oO


■惑星ソラリス



聖書つながりで、以前とてもよく聞いていた、バッハのコーラルを思い出しました。

「主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる」
"Listen to Bach (The Earth)" from "Solaris"





この曲に出会ったのは、あねぞうさんの難病発症、あだきち君の重度障害が分かったころから、それほど月日が経っていない時期です。

タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」のテーマになっていた曲で、映画のストーリーとともに、曲が心の奥深くに入り込んで、鳴り止まなくなりました。







「惑星ソラリス」は、ながくて、あいまいで、猛烈に睡魔を喚起し、見終わってもなんだかよくわからない映画として、よく知られています。

けれども、実際に鑑賞してみたら、分からないという印象は、それほどありませんでした。

たしかに、事件の背景となる出来事など、語られないまま終わってしまった要素が多かったように思いますが、物語の世界観にどっぷり入り込んでしまうと、そのあたりは気にならなくなりました。


お話の流れ自体はシンプルであったと思います。

中年の宇宙飛行士が、仕事で奇妙な惑星に赴くのですが、そこで、すでに亡くなっているはずの、美しい妻と再会することになります。

その再会は、幸福なものではありませんでした。
姿かたちは完璧に最愛の人であっても、異世界での特殊な現象にすぎませんから、共に過ごすうちに、たとえようもなく異様な存在であることが、分かってきてしまうのです。

他のクルーたちは、こうしたいびつな過去の襲来を食らい、心をおかしくしていって、自死を選ぶものも出てきます(と記憶していますが、ちと曖昧…)。

主人公の宇宙飛行士は、いろいろな経緯の末に、作り物の妻と決別することになるのですが、惑星ソラリスは彼を手放すつもりがなかったらしく、結局、ソラリスが実体化した偽ものの現実のなかに取り込まれていったであろうことがラストで示唆され、映画は終わります。


本物と寸分違わない、なつかしい家のなかで、作り物の父親を見つけ出したときの、主人公の倦み疲れた絶望の表情は、私にとっては、心底恐ろしく、できればそういう思いは絶対に経験したくないと思わされるようなものでした。

あの映画のラストについて、私はこんなふうに、受け止めています。

人生のすべての不幸は、自分の脳が、過去の出来事や感情の記憶として保持しつづけることで成立しているのであって、脳内に構成されたその不幸な世界から、生きている限り、絶対に逃げ出すことができないことを悟ったからこそ、主人公の、あの絶望の表情があるのだろうと。

主人公が、老いた父親の前にひざまづいて、許しを請うかのようにすがったのは、過去に搦め取られて決定づけられている自分の運命に、殉じる道しか選択できなかったことを表しているのだと感じました。

主人公は、ソラリスの絶大な意志に寄り添われながら、完全に自分の運命のなかに閉じ込められ、そこで終焉を迎えたことでしょう。


なんとなくですが、上のほうで引用した新約聖書の神と、「惑星ソラリス」のあり方とが、どこか似ているような気がします。

この世界を創造して、どこにでも存在し(遍在)、すべてを見知っていて、人の運命にかかわり、道を示し、救いを行う神。

意志と創造の力を持つ惑星ソラリスは、地球の(キリスト教の)神と似たようなことを、外来者である地球人に行おうとしたかのようです。

けれども、もともと人を持たない存在だったためか、外からやってきた地球人の脳の記録を読み取り、精神を学んで(真似て)、創造や博愛を執り行おうとしたものの、どうにもズレた、おかしいことになってしまった……そんなふうにも思えるのです。

なんにせよ、地球人とソラリスとの出会いは、好ましいものにはなりにくいことでしょう。過去の再現や、かつて経験した感情の追認だけでは、現状を打ち破って新しい状況に進んでいくことができません。過去が幸福なものであるなら、それでもいいのかもしれませんが、たいてい、そうじゃないですから。(´・ω・`)

もしかしたら、知的で超常の存在である惑星ソラリスは、地球人との不幸な遭遇から学んで、のちにオリジナルのソラリス人を創造していくようになるのかもしれませんけれども、それは全く別の物語ですね。