2017年5月4日木曜日

「努力すれば達成できる」というムリゲー仕様の日常


どーもくん、を描いたらしいです…




お友だちが紹介していた、この四コマ漫画を見て、なんとも言えない気持ちになりました。

発達障害があっても、自分らしく生きられる社会を作る
NPO法人発達わんぱく会」
「がんばれ アスペさん」



社会のなかで生きていると、努力することを、期待される場面が、とても多いです。

人よりも出来ないことがあると、「もっとがんばれ」と言われます。

自分なりに努力しても出来ないと、「努力が足りない」と言われます。

社会的な評価をシカトして、すでに持っている能力の範囲内で、自分を運用していこうとすると、「怠けている」「向上心がない」などと言われる場合もあります。


大人になって久しい私(おかーさん)でも、そうなんですから(主婦なんだからもっと家事名人に! 部屋散らかりすぎ! ダイエットもきちんと! 健康管理足りない!……とほほ)、成長途中にある子どもたちなんて、ほんとうに大変。

大人よりもたいていのことができなくて、目標とすべき水準が示されていて、そこに到達せずにいると、周からのの評価が、下がります。

どう努力すれば、うまくいくようになるのか分からないのに、努力を強いられる切なさ。

「どうしてできないの」
「早くしなさいっ」
「もっと努力しなさいっ」

そして、苦しみ抜いて期待に応えたときに、かけられる言葉は、

「やればできるじゃない」

これは、褒め言葉ではありません。言っている人は、褒めているつもりかもしれません。でも、聞いている側にとっては、そうではありません。

「誰でもやればできるような、簡単なことを、いままで努力しなかつたから、出来なかっただけでしょ? やればできるんだから」

盲目の人に「努力してよく見ろ」というのは、おかしいことだと、誰にでも分かります。
ひどい腰痛で呻き声をあげている人に、「100メートル全力疾走してこい」といったら、虐待です。

でも、次のようなことになると、どうでしょう。

・忘れ物が多い
・宿題が、つらくてしかたがない
・人の顔がなかなか覚えられない
・時間配分を間違えてしょっちゅう遅刻する
・騒がしい教室で先生の質問を聞き取ったり、集中して問題を解くことができない

持って生まれてしまった脳の、奇妙な特質のために、とんでもなく難しい課題になっているのに、そのことに対する理解は微塵もないまま、努力のないことを責めるのですが、言っている側の人は、その理不尽さに気づきません。

努力しなさい。
努力すれば、このぐらい、出来るはずだ。
努力が足りていない。
努力する気がないのが悪い。
努力しないのは、不真面目だから。


バ○の一つ覚えに繰り返される、こうした指導には、致命的に足りていないものがあります。

それは、問題を抱える子どもへの理解と、問題解決のための、具体的な工夫の提案です。

努力なんていう、抽象的なことを押しつけられても、「どうしたら、うまくいくのか」が分からない子どもは、困惑するだけです。

(おかーさん)は、発達障害の診断を受けたことはありませんでしたが、いまなら、おそらく三歳児検診あたりで、軽く引っかかっただろうと思います。

幼稚園に入ってから、着替えなど、身辺自立で、大苦戦しました。
昇降口で、上履きに履き替えることがうまくできず、先生に𠮟られていた記憶があります。当時四歳だった私は、どうやったら、自分の足が、うまく上履きのなかに入るのか、さっぱり分からず、座り込んで、いつまでも上履きをいじっていたものでした。

そういう苦労は、小学校に入っても、かなり長く続きました。
着替えが遅くてヘタクソなので、体操着や水着に着替えるのがイヤでイヤで、体育のある日は憂鬱でした。服をたたむことも嫌いでした。いま思うと、やり方や手順が、よく解っていなかったのです。

幼少期の自分が、発達の問題を抱えていた可能性があることに気づいたのは、あだきち君のおかげです。

あだきち君も、かつての私と同じように、学校の昇降口で、スニーカーを上履きに履き替えることが、うまく出来なかったからです。

小学一年生になったばかりのころのあだきち君は、下駄箱を前にして、スニーカーをぬぐことはできました。けれども、そこで動きがとまってしまいます。

・自分の下駄箱の中にある上履きを取りだして、下に置く
・脱いだスニーカーを手に持って、下駄箱に入れる
・足を上履きに入れて、折れ曲がったかかとのところを指でのばしたりする

フリーズしてしまったあだきち君のために、下駄箱を指さして、「上履きを出そう」と声をかけると、出すことはできるのですが、床に一度置いた上履きを、またそのまま下駄箱に入れてしまおうとします。

それを止めて、履いてきたスニーカーに持ち替えさせて、下駄箱にそれを入れてもらうと、そこでまたフリーズです。

床にある上履きを履くというスイッチが、自力では、なかなか入らないのです。

「上履き、履こうか」

といって、指さししながら注意を喚起すると、やっと足を入れるのですが、かかとは潰したままだし、つま先まできちんと足が入っていないまま、歩き出そうとしてしまいます。

そこで、

「ちゃんと、履こうね」

と声をかけて、指をつかって上履きのかかかと部分を伸ばすように指示したり、つま先まできちんと足を入れるように指示したり。

 繰り返し繰り返し、指示しながら、時にはやり方を見せて、根気よく練習していきました。

この一連の動きを、指示なしでできるようになるまでに、一年以上かかったように記憶しています。

何も言わなくても、スイスイと上履きとスニーカーを入れ替えて、さっと履いてしまうあだきち君が誕生したときには、心のそこから男前だと思いました。ヾ(^^)

ただ、指できちんとかかと部分を伸ばすことは、高等部卒業まで、うまくできないままでしたけども。足を上履きにいれたところで、意識が別なほうに行ってしまうのです。(^_^;


(__).。oO


あだきち君が小学校のころ、療育教室で、長袖のトレーナーやシャツを「たたむ」練習を、長い時間をかけて教えてもらいました。

あだきち君にとって、手元に広げた衣類全体に視線を走らせて、形を認識するということは、とても難しい行動でした。それに加えて、複数の手順を記憶し、それに従って作業を遂行するということも、ものすごく苦手でした。

手順の写真を見せたり。
実際にたたんでいる様子を、繰り返し見せたり。
二人羽織式に、後ろから手伝いながら、やってもらったり。

そうして、何ヶ月かかけて、あだきち君は、トレーナーをたためるようになりました。

あだきち君は、とんでもない努力家です。

「やればできる」レベルのことなんかではない、なかなか、人にはできないような、とんでもない試練を乗り越えて、トレーナーをたたみ、上履きが履けるようになったのだということを、私(おかーさん)は、心から理解しています。

何かがうまくできないとき、努力が足りないだけでなく、自分にあった工夫ができていないからかもしれないと、周囲や自分で、気づくことができる人が増えるといいなと思います。