2016年7月28日木曜日

「かわいそうだから殺してあげよう」という発想

今朝のあだきち君/平日通所



画像は、今朝のあだきち君。
加工ソフトで、コルクに印刷したような風合いにしてみました。

今日は、普通に施設通所の日。

朝、送っていったら、施設の敷地内に、やぐらのようなものが組み立てられつつありました。何かイベントがあるのかなと思ったのですが、うっかりして、施設の方に聞くのを忘れて帰って来てしまいました。

それで、ネットで情報を探してみたのですが、それらしいものが、見つかりません。

施設のほうでは、日々の様子を伝えるようなホームページなどは作っていないようでした。


施設の職員さんたちは、ほんとうにお忙しいですから、ネットに発信するような余裕はないのだろうと思います。

でも、もっと中の暮らしの様子や、取り組みを、外に伝える機会が増えてくれば、知的障害者の施設に対する、暗く救いのない場所であるかのような一般的なイメージが、変わっていくのではないかと思っています。

私も、ここに、あだきちくんの日々の通所の様子を書きつづけようと思います。

施設が、人間らしく、与えられた人生を真摯に生きようとしている人たちのための場所だと、伝えられたらいいなと思います。


事件に感じた、センチメンタルなファシズム…



相模原の事件の犯人が、衆議院議長にあてて書いたという手紙のなかに、


「保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳」
「障害者は不幸を作ることしかできません。」


などとあり、それがある程度のリアルティを帯びているように受け止められるるためでしょうか、犯人に対しては憤りを感じるといいつつも、障害者の安楽死等については一考の余地があるといった発言をしている人が、ネット上に少なからず見受けられました。


こういうのを、センチメンタリズムにコーティングされたファシズム、というのではないかと思います。


「かわいそうだから、殺してあげよう。そのほうが本人のためにも社会のためにもなるから」


そういう発想です。
気の毒な人々を救うためにという、とんでもない大義名分を掲げて、社会貢献が難しいという理由で最も弱い立場の人々の命を、一方的に奪うという行為を、正当化するのです。


そして、センチメンタリズムにコーティングされているがゆえに、知的障害のある方々が暮らす現場をほとんど知らない、ごく普通の方々が、「もしかしたら、そのほうがいいのかもしれない」と、容易に同調してしまえる、そして、それが一定の世論を形成する可能性を持つ……


これは、ほんとうに恐ろしいことではないかと思います。


介護の職場、知的障害者の生活支援が、そんなに甘いものではないことは、よくわかっています。なにしろ、18年も、あだきち君の親をやっているのですから。

いまだって、疲れ切った表情になることも、もちろんあります。


でも、疲れきった顔なんかしていたら、あだきち君を守れないのだなと、今回ほんとうに強く思いました。


かわいそうだから世の中のために殺してあげようという、気持ちの悪い笑みを浮かべた殺戮者。


そんなものに、負けるわけにはいかないのです。




すこし、昔の話を…


横綱級の広汎性発達障害児。
自閉傾向は、日々炸裂……

あだきち君の幼児期には、ほんとうに大変なことが多かったのですが、楽しいことも、たくさんありました。

いまはもう、その全部が、あたたかい思い出として残っています。
あたたかいというのは、月並みな言い方ではありますが、そのあたたかさが、ここにくるまでの道のりを、支えてくれたのは間違いありません。


以下は、古い日記です。
以前は自分のホームページに公開していましたが、そこをたたんでしまったので、手元のハードディスクに残したhtml書類から、貼り付けてみます。

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2002年12月1日  (あだきち君・4歳)
 あだきち君は、私のパジャマが好きである。あるいは、パジャマを着ている私が好きである。
 あだきち君を産むときに新調した、あずき色の授乳用パジャマがとくに好きで、昼間でも私にそれを来てくれとせがむ。羽織るだけでなく、ちゃんとボタンもかけなければいけないらしい。
 私が着てやらないと、パジャマを両手で抱えてほっぺたに押しつけたりしている。そんなに好きならアンタも着てみなさいよと言って、あだきち君にパジャマをかぶせようとしたら、恥かしがって逃げていった。照れるほどのことなのか。

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アメリカ同時多発テロが、2001年。
これはその翌年の冬の記録です。
あだきち君は、テロの年に就学前施設に入園しましたが、どうも合わなくて、退園。

上の日記のころは、5歳になる直前で、週三回ほど、民間の療育教室に通いつつ、ほとんど自宅で過ごしていました。


あだきち君は、おかーさんの着る服に、いまもちょっとしたこだわりをもっています。

最近では、着るものを選んでよこすことはなくなっていますが、着方には、なかなかうるさく口を出します。(あ、言葉ではなく、手を出してきます)

ポロシャツのようなものは、とにかく首元まできっちりと、ボタンをかけなければ、我慢がならないらしくて、一番上をあけていたりすると、わざわざかけてくれたりします。

冬などは、出かけるときに、私のコートを持ってきて、手渡してくれます。

たぶん、あだきち君のなかに、「おかーさんの服装は、こうあらねばならない」的な規範があって、私がそれを破っていると、イラっとするのだろうと思います。


でも、あだきち君自身は、自分の服装は、ほんと、いいかげんです(^_^;。

自宅にいるときは、Tシャツに、トランクスいっちょ。

そしてシャツは、なぜかたいてい、裏返しの、後ろ前に着ています。
ほぼ九割、そのように着ているので、まちがいなくわざとやっているのだと思うのですが、理由はさっぱりわかりません。

「あだきちくん、シャツ反対だよ」

と、声をかけると、ささっと脱いで、正しく着直します。


洋服の縫い目が身体にあたるとつらいという話を、自閉症のかたの手記などで見ることがあります。
あだきち君は、皮膚感覚がそんなに過敏ということもないと思うのですが、シャツを必ず裏返しに着るのは、縫い目があたらないほうが心地よいからなのかもしれません。


でも、必ず後ろ前に着る理由は、さっぱり分からないのでした(^_^;。