2017年4月20日木曜日
引用日記…モンテーニュの「随想録」の切れっ端
昨日読んだ、三木清「人生論」の、死についての章の続きを、また少し読みました。
パスカルはモンテーニュが死に対して無関心であるといって非難したが、私はモンテーニュを読んで、彼には何か東洋の智慧に近いものがあるのを感じる。
最上の死は予め考えられなかった死である、と彼は書いている。支那人とフランス人との類似はともかく注目すべきことである。
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モンテーニュの著作は、自発的に読んだことがありません。
どんな人生を送った人だったのか、wikiを覗きました。
1533年2月28日 、モンティーニュ城に生まれる。
お城が実家。裕福なユダヤ人家庭の子息だったようです。
お城に行ってみました(googleマップで)
さて、どんなところなのか。。。
ストリートビュー用のヒトガタを、近くにおいてみたら、
Σ( ̄□ ̄lll)!!
いきなり城の内部に放り込まれました。
玄関…じゃないですよね。
しかもなんか、ヒーターみたいな機械が置いてある。
モンテーニュさんは、お留守の様子。
いろいろ試してみましたが、ストリートビューを許されている範囲では、お城の外観を近場から見ることは、出来ないようでした。googleの車、入れなかったんだろうな。ということは、上の部屋には、人がカメラを担いで入ったのかしら。
上から見ることは出来ました。
巨大ではないのかもしれませんけど、なんにしろ、お城です。
お城がおうちなんだから、領主様です。
でも、モンテーニュという人は、六歳になるまで、家庭教師に預けられて、ラテン語で育てられたそうです。当時としても、特異な生育歴であるとのこと。超インテリになることを、親御さんに期待されたのでしょうか。当時の教育事情を知りたいところです。
そしてどうやら、大人になったモンテーニュさんは、領主様としてのお仕事、領国の経営者としての立場は、あまり好きじゃなかったみたいです。そりゃ、どんな時代でも経営者は多忙ですから、読んだり書いたり考えたりする時間、なかなか取れないだろうと思います。
さて、モンテーニュさんが生きていた時代は、ちょうど宗教改革が起きているころだったようです。(マルティン・ルターは、モンテーニュが十代前半だったころに、亡くなっています。)
んで、モンテーニュさんは立場としてはローマ・カトリック派だったけれど、プロテスタント側にも人脈があって、双方の融和をはかったと、wikiには書かれています。
そして有名な著書「エセー(随想録)」には、聖書の引用が、なぜかほとんどないのだとか。
信仰にしばられずに考察したかったからなのか。
それとも、宗教改革の暴風雨に配慮して、距離を置いて触らないようにしておきたかったのか。
後に「エセー」は、無神論の書として、禁書認定されたそうです。
amzonの Kindle unlimitedに、「随想録(抄)」が出ていたので、DLしてみると、最後のほうに、「死」という章があります。三木清とのつながりで、そこの部分を少し読みました。以下引用。
どこでおまえたちの命は終わっても、それはそこで全部なのだ。
人生の利益は、その長さにではなく、その用い方にある。
あるものは長く生きはしたがほとんど生きなかった。お前達がそこにある間は、そこに意を用いよ。おまえたちが十分に生きたかどうかは、かかってお前達の意志にある。年数にはない。
おまえたちは絶えずそこに向かって歩みながら、決してそこにゆき着く日がないと考えていたが。それに果てしない未知というものはないのである。
だがしかし、道連れはおまえたちを慰めることができる。だって、世界はこぞっておまえたちと同じ道を行くではないか。
お前の一生が終わる時は、
万物もまた死してお前に従う。(ルクレティウス)
万物はおまえたちの舞を舞うではないか。おまえたちと共に老いないものがあるか。幾千の人、幾千の動物、その他幾千の被造物が、おまえたちが死ぬのと同じ瞬間に死ぬのである。
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あー、ここだけ読んでも、たしかに「神」の気配が薄い感じの世界観っぽいですね。
神のいないところで生まれて、生きて、死んでいく話のように読めます。というか、神が「いなくても」できる生き方であり、死に方のように受け取れます。「十分に生きた」ことの承認を、誰か別の存在、高位の意志みたいのところに、求めていませんから。
こうした考え方が、「東洋の智慧」に近いのかどうかは、私には分かりませんが、すんなり分かる話ではあります。だって、もともとそうじゃん、と。
最近に限ったことでもないのでしょうが、世の中に、無惨で理不尽で受け入れがたいような死についての報道があふれかえっているのに、その死が、人ではなく、国やら政治やら社会の仕組みやら経済やらの文脈でばかり語られているように見えなくもなくて、なんだかとても居心地悪いので、こういうものを読みたくなるのかもしれません。
死と一緒にあるはずの、個々人の生身と感情、どこいったのかと。