2017年4月21日金曜日

引用日記…「星の銀貨」グリム童話より




お題は「血」

ここのブログを訪問する方が少ない(ぶっちゃけ、ほとんどいない)のは、中身がつまらないだけでなく、毎度、トップに貼り付ける自作の絵が怪しいせいだという説が、ないこともありません。

でもまだ在庫がいっぱいあるので(しかも、日々増えている)、このまま貼り続けるのです。だって、描いたら見せたいじゃないですか(迷惑)。


何か読んで、それについて何か書くということを始めてから、今日で3回目になります。
とりあえず、目指せ10回。
回数をたくさん重ねることに、とくに意味はありませんけど、積みかさねていくことで、どこか思いも新しいところにたどり着くことも、ないこともないかもしれません。

今日はグリム童話を読みました。


星の銀貨
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むかし、むかし、小さい女の子がありました。この子には、おとうさんもおかあさんもありませんでした。たいへんびんぼうでしたから、しまいには、もう住むにもへやはないし、もうねるにも寝床がないようになって、とうとうおしまいには、からだにつけたもののほかは、手にもったパンひとかけきりで、それもなさけぶかい人がめぐんでくれたものでした。

でも、この子は、心のすなおな、信心のあつい子でありました。それでも、こんなにして世の中からまるで見捨てられてしまっているので、この子は、やさしい神さまのお力にだけすがって、ひとりぼっち、野原の上をあるいて行きました。すると、そこへ、びんぼうらしい男が出てきて、

「ねえ、なにかたべるものをおくれ。おなかがすいてたまらないよ」

と、といいました。(略)


続きは要約します。
女の子は、パンを男に全部あげます。その後、出会った子どもたちに、着ているものを全部、肌着まで次々と分けてやってしまって、裸になってしまいます。すると空から銀貨がバラバラと落ちてきて、肌着も新しいものが出現します。女の子は一生裕福に暮らします。おわり。


グリム童話は古い伝承を拾っていると思うので、女の子が信じている「神さま」が、キリスト教の神かどうかは分かりません。

そして、最後に空から降ってくる星の銀貨が、「神さま」から送られたものかどうかも、不明です。

物語は、次の三つで出来ています。

信心深い女の子の、絶望的な状況
物乞いをする人々への、女の子の、極限までの奉仕と献身
女の子に降ってわいた、すばらしい現世利益


これらは並んでいるだけで、因果関係を結んでいるわけではないのですが、読んでいると、

「恵まれない状況でありながら、自らの命の危険もかえりみずに他人に献身し、信仰と貞操以外の全てを失った結果、すばらしく裕福な生活を手に入れた」

というふうに、頭に入ってきます。

日本の昔話の「わらしべ長者」ですと、物々交換で成り上がっていきますが、この女の子は、自分のものを全部タダであげちゃっていて、対価を得ていません。食べ物も着る物も手放した状態で、野原を放浪していますから、このままですと、遠からず命の危険にさらされます。普通、餓死か凍死でしょう。

でも物語では奇跡が起きて、女の子は死なず、手放したものより遙かに大きな財産を得ることになります。

いいお話であるのかもしれませんが、聞いた人の大半は、現実的ではないと思うのではないでしょうか。まして、自分も女の子のようにありたいと思い、実行できる人は、まずいないでしょう。

残酷な話ですが、たいていの人間は、ぎりぎりのところで自分が生きるためには、他人の苦しみや命の危険には、目をつむってしまうことができるものだと思います。女の子に物をたかって感謝の言葉も残さなかった(書かれていないだけかもしれませんが)人々は、多くの人間の、よくある姿です。

よその国にとんでもない爆弾を落としたり、先制攻撃をしても、それが自分たちの命や暮らしを守るためとなれば、肯定されていきます。だってしかたがない、やらなければ自分が死ぬかもしれないのだから、と。


とすると、この「心洗われるけれど、まず有り得ない物語」は、何のために生み出され、語り継がれてきたのでしょう。

この女の子のように、信仰心と自己犠牲的な行動をとることを、賞賛し、広く推奨するためだとしたら、ずいぶんひどい話です。荒れて貧しい社会であれば、いい人から、どんどん死んでいくことになりますから。

そんなブラック企業の信念みたいな物語を、道徳の基本としているような社会は、怖いですし、あまり先がなさそうです。(´・ω・`)

他の可能性も考えてみます。

たとえば、かつて、この女の子のように、貧しくて信仰の厚い、無垢な人物が、自殺行為ともいえるような献身の果てに、あるいは理不尽な搾取を受けたあげくに、命を落としてしまったという事実があったとします。そのありさまは、目を覆いたくなるほど残酷で、グロテスクなものであったかもしれません。

そして、その経緯を知る人々が、心を痛めながら、その人物のことを語り継いでいったかもしれません。そんなひどい話は、語らずにはいられませんから。

人々が、自分たちのせいで死んでいった、その人物のことを語るとき、痛みだけでなく、罪悪感や後悔、自責の念から目をそらしていたいという、後ろ暗い願望が生まれていたかもしれません。

そんな願望が、悲惨きわまりない物語のなかに、いつのまにか現世的な救済のくだりを差し挟んでしまったということも、あり得るのではないかと思います。

自分たちが苦しめた女の子は、救われた。
だから自分たちの罪も消えて、心の痛みと自責の念から解放された…ということにしておこう、みたいな。

女の子に肌着を着せ、星の金貨を降らせることで、(架空の世界で)彼女の余生を守ったのは、神さまではなく、物語を語り継いできた人々の罪悪感や、「ほんとうはこうであってほしかった」という願い、悔恨の気持ちだったのかもしれません。私には、そちらのほうが、しっくりきます。


……あれ?
人々のために罪を背負って殺されて、あとから奇跡的に復活した人、2000年くらい前に、どこかにいらっしゃいましたよね。なんだか、似てますね。


中途半端ですが、今日はここまで。