2016年7月28日木曜日

生きる意味も、人生のオールも、本人のもの


ツイッターで、とてもすてきなツイートをみつけました。

ねこかめさん、とおっしゃる方の、息子さんの言葉です。

件の殺害事件の犯人が「最初は障害者に対し不憫だと思ったがそのうちこの人達のゴールはどこだろうと考えるようになり抹殺しようと思った(要約)」という供述をしているとニュースで見た息子(8歳)が「人生にゴールなんか無い!生きるだけだ!生きる意味を他人が勝手に決めるな!」と憤慨している。

胸のすく言葉に、救われる気持ちがしました。



あだきち君の連絡帳より


施設でのあだきち君の様子を、職員の方が、毎日連絡帳に書いて知らせてくれます。

今日は、午前中に漢字ノートで練習をしたとのこと。
少し落ち着かなかったとありました。
ノートにびっしり書いてある漢字、ちょっとマスからはみ出して、踊っています。
少し暑くて、寝不足気味だからかもしれません。(^_^;

お昼ご飯はしっかり食べて、午後はくつろいで過ごしていたようです。



昔の日記から

前回の日記に書いた「センチメンタルなファシズム」ということについて、あだきち君が小さいころにも、日記に書いたことがあったのを、思い出しました。

もともとは大江健三郎氏のエッセイに、そうした考え方があったのを読んで、共感したのだったと思います。

当時の日記を掘り返したので、趣旨を変えずに文章に手を入れつつ、貼ってみます。
(古い日記、なんだかトケトゲしくて、自分でも読んでいて疲れるので……余裕がなかったんですね)


------------------------------

2002年6月3日  (あだきち君・4歳)

 今日は、障害児の出生率を下げるために、出生前診断を受けるべきかどうかという議論を見かけた。完全な水掛論。当事者の気持ちなど知る由もない、無神経な人々。そんな議論によって推し進められようとする「正義」が、いま生きている障害児にとって、どんな意味があるというのか。 


 「重度心身障害児はかわいそうだから、生まれる前に殺しましょう」 
 「親や社会のエゴで重度心身障害児を中絶するのは道徳的でない」 


 どちらの意見にも、共感ができない。

 同じように、次のような議論がなされていたとしたら、どうだろうか。
 いままさに、介護をなさっている方々の心に、響くところがあるとは思えない。

「認知症の老人はかわいそうだから、早めに安楽死させましょう」
「家族や社会のエゴで痴呆老人を安楽死させるのは、道徳的でない」 


 こうした他人事の感傷や道徳感覚が、当事者にとって何の役に立つというのか。

 センチメンタリズムはファシズムの始まりだというようなことを、大江健三郎がエッセイに書いていたのを思い出す。ほんとにその通りだが、、センチメンタリズムの対極が、道徳やマナー感覚の押し付けでは、どちらに転んでも、当事者の救われる道はなさそうである。 


 そんな議論は放っておけばいいのに、障害児療育についてネット検索をかけるたびに、そういうものが、有意義な情報と一緒に引っかかってきてしまうのが、つらい。目に入れたくなくても、入ってしまうからである。

 障害児の親同士が、罵倒論争をやっているのも見かけた。生身の人間同士なら、せいぜい陰口で終わるところが、ネット上で顔が見えないものだから、取り返しのつかないところまで言い合ってしまう。よせばいいのに、とは思わない。見苦しいまでに誰かを罵り尽くすことで、踏みしめる土台が固まるというなら、そうすればいい。何もかも飲み込んで許しながら、物も言わずに苦しい人生を生きるなんて、そんな簡単にできるはずがないのだから。

 でも大抵の人は、自分の吐いた毒にやられて、かえって余計に苦しむように見える。 


 親がなにかを罵ろうが、吐いた毒に中毒しようが、障害と共に子供は生きて、育っていく。 




 あだきち君が、急に、絵本をよく読むようになった 
 今日はディズニーランドの解説本のような絵本を、じーっと見つめながら、ページをめくっていた 

 その前は、リアルな挿絵の多い、動物の絵本。 
 明日は、何を読むだろう。 


---------------------------------------------


大江健三郎氏のエッセイ、どれだったろうか……思い出せません(´;ω;`)。

センチメンタリズムがファシズムのはじまりというのは、あの相模原の犯人の手紙の文面に、そのまま当てはまるように思います。14年前の私も、そうした思考に、強いアレルギーを持ったようですが、読み返してみると、なんだか言葉足らずで、書くべきことを書けていない気がします(今もですけど)。


これを書いた日の私は、「かわいそうだから~」という感傷で、あだきち君の感情には目もくれずに、一方的に不幸だと決めつけてしまうような、きもちのわるい「優しさ」に対しても、あだきち君と家族が、ここで生きている苦しみや喜びとは無関係な、血の通わない一般論で「殺すべきではない」という正論をかかげられることについても、いらだちしか感じなかったのでした。


要するに、私が言いたかったことは、上に引用した、ねこかめさんの息子さんの

「人生にゴールなんか無い!生きるだけだ!生きる意味を他人が勝手に決めるな!」

という言葉で、足りてしまうと思います。




これを書いていて、あだきち君が小学校の支援学級に通っていたころ、クラスの男の子たちが、TOKIOの「宙船」のCDを、毎朝繰り返し再生して、熱心に聞いていたのを思い出します。






「おまえが消えて喜ぶものに おまえのオールをまかせるな」


私も一緒に聞きながら、あだきち君が、この歌詞の意味を分かってくれて、自信をもって生きていつてくれたらいいなと、思ったものでした。


もっとも、あだきち君は、歌に支えられなくても、堂々と人生を楽しんで生きています。
弱いのは、親の私だけでした。(^_^;



そういえば、あだきち君は、最近、本をあまり読みません。
なにか、勧めてみようかな。。。