ツイッターで、とてもすてきなツイートをみつけました。
ねこかめさん、とおっしゃる方の、息子さんの言葉です。
件の殺害事件の犯人が「最初は障害者に対し不憫だと思ったがそのうちこの人達のゴールはどこだろうと考えるようになり抹殺しようと思った(要約)」という供述をしているとニュースで見た息子(8歳)が「人生にゴールなんか無い!生きるだけだ!生きる意味を他人が勝手に決めるな!」と憤慨している。
胸のすく言葉に、救われる気持ちがしました。
あだきち君の連絡帳より
施設でのあだきち君の様子を、職員の方が、毎日連絡帳に書いて知らせてくれます。
今日は、午前中に漢字ノートで練習をしたとのこと。
少し落ち着かなかったとありました。
ノートにびっしり書いてある漢字、ちょっとマスからはみ出して、踊っています。
少し暑くて、寝不足気味だからかもしれません。(^_^;
お昼ご飯はしっかり食べて、午後はくつろいで過ごしていたようです。
昔の日記から
前回の日記に書いた「センチメンタルなファシズム」ということについて、あだきち君が小さいころにも、日記に書いたことがあったのを、思い出しました。
もともとは大江健三郎氏のエッセイに、そうした考え方があったのを読んで、共感したのだったと思います。
当時の日記を掘り返したので、趣旨を変えずに文章に手を入れつつ、貼ってみます。
(古い日記、なんだかトケトゲしくて、自分でも読んでいて疲れるので……余裕がなかったんですね)
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2002年6月3日 (あだきち君・4歳)
今日は、障害児の出生率を下げるために、出生前診断を受けるべきかどうかという議論を見かけた。完全な水掛論。当事者の気持ちなど知る由もない、無神経な人々。そんな議論によって推し進められようとする「正義」が、いま生きている障害児にとって、どんな意味があるというのか。
「重度心身障害児はかわいそうだから、生まれる前に殺しましょう」
「親や社会のエゴで重度心身障害児を中絶するのは道徳的でない」
今日は、障害児の出生率を下げるために、出生前診断を受けるべきかどうかという議論を見かけた。完全な水掛論。当事者の気持ちなど知る由もない、無神経な人々。そんな議論によって推し進められようとする「正義」が、いま生きている障害児にとって、どんな意味があるというのか。
「重度心身障害児はかわいそうだから、生まれる前に殺しましょう」
「親や社会のエゴで重度心身障害児を中絶するのは道徳的でない」
どちらの意見にも、共感ができない。
同じように、次のような議論がなされていたとしたら、どうだろうか。
いままさに、介護をなさっている方々の心に、響くところがあるとは思えない。
「認知症の老人はかわいそうだから、早めに安楽死させましょう」
「家族や社会のエゴで痴呆老人を安楽死させるのは、道徳的でない」
こうした他人事の感傷や道徳感覚が、当事者にとって何の役に立つというのか。
「認知症の老人はかわいそうだから、早めに安楽死させましょう」
「家族や社会のエゴで痴呆老人を安楽死させるのは、道徳的でない」
こうした他人事の感傷や道徳感覚が、当事者にとって何の役に立つというのか。
センチメンタリズムはファシズムの始まりだというようなことを、大江健三郎がエッセイに書いていたのを思い出す。ほんとにその通りだが、、センチメンタリズムの対極が、道徳やマナー感覚の押し付けでは、どちらに転んでも、当事者の救われる道はなさそうである。
そんな議論は放っておけばいいのに、障害児療育についてネット検索をかけるたびに、そういうものが、有意義な情報と一緒に引っかかってきてしまうのが、つらい。目に入れたくなくても、入ってしまうからである。
障害児の親同士が、罵倒論争をやっているのも見かけた。生身の人間同士なら、せいぜい陰口で終わるところが、ネット上で顔が見えないものだから、取り返しのつかないところまで言い合ってしまう。よせばいいのに、とは思わない。見苦しいまでに誰かを罵り尽くすことで、踏みしめる土台が固まるというなら、そうすればいい。何もかも飲み込んで許しながら、物も言わずに苦しい人生を生きるなんて、そんな簡単にできるはずがないのだから。
でも大抵の人は、自分の吐いた毒にやられて、かえって余計に苦しむように見える。
親がなにかを罵ろうが、吐いた毒に中毒しようが、障害と共に子供は生きて、育っていく。
あだきち君が、急に、絵本をよく読むようになった
今日はディズニーランドの解説本のような絵本を、じーっと見つめながら、ページをめくっていた
その前は、リアルな挿絵の多い、動物の絵本。
明日は、何を読むだろう。
親がなにかを罵ろうが、吐いた毒に中毒しようが、障害と共に子供は生きて、育っていく。
あだきち君が、急に、絵本をよく読むようになった
今日はディズニーランドの解説本のような絵本を、じーっと見つめながら、ページをめくっていた
その前は、リアルな挿絵の多い、動物の絵本。
明日は、何を読むだろう。
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大江健三郎氏のエッセイ、どれだったろうか……思い出せません(´;ω;`)。
センチメンタリズムがファシズムのはじまりというのは、あの相模原の犯人の手紙の文面に、そのまま当てはまるように思います。14年前の私も、そうした思考に、強いアレルギーを持ったようですが、読み返してみると、なんだか言葉足らずで、書くべきことを書けていない気がします(今もですけど)。
これを書いた日の私は、「かわいそうだから~」という感傷で、あだきち君の感情には目もくれずに、一方的に不幸だと決めつけてしまうような、きもちのわるい「優しさ」に対しても、あだきち君と家族が、ここで生きている苦しみや喜びとは無関係な、血の通わない一般論で「殺すべきではない」という正論をかかげられることについても、いらだちしか感じなかったのでした。
要するに、私が言いたかったことは、上に引用した、ねこかめさんの息子さんの
「人生にゴールなんか無い!生きるだけだ!生きる意味を他人が勝手に決めるな!」
という言葉で、足りてしまうと思います。
これを書いていて、あだきち君が小学校の支援学級に通っていたころ、クラスの男の子たちが、TOKIOの「宙船」のCDを、毎朝繰り返し再生して、熱心に聞いていたのを思い出します。
「おまえが消えて喜ぶものに おまえのオールをまかせるな」
私も一緒に聞きながら、あだきち君が、この歌詞の意味を分かってくれて、自信をもって生きていつてくれたらいいなと、思ったものでした。
もっとも、あだきち君は、歌に支えられなくても、堂々と人生を楽しんで生きています。
弱いのは、親の私だけでした。(^_^;
そういえば、あだきち君は、最近、本をあまり読みません。
なにか、勧めてみようかな。。。