とんでもない事件の報道を見て、胸のつぶれるような思いにかられています。
ブログを更新しようかどうしようか、少し考えましたが、やはり書くことにします。
……
今日は、あだきち君のショートステイの日です。
朝、着替えなどまとめてカバンにいれて。
連絡帳に、あだきち君の様子を書いて、持ち物表を挟み込んで。
大事な水筒に、わかしたてのお茶を、すこしさまして、いれて。
あだきち君用の日記帳には、「たくさんお手伝いして、楽しんでね」と書き込んで持たせました。
そして、いつも通り、車で施設に送りました。
今日は曇り空で、いまにも降り出しそうな色合い。あだきち君は、こういう空模様の日は、あまり落ち着かなくなることが多いです。そのことも連絡帳に書いたのですが、いつもよりも穏やかな様子で、ニココニしながらお部屋に入っていきました。
前の晩に夜勤だった職員さんと、少しお話が出来ました。
あだきち君は、公園に散歩にいくと、いつもブランコを楽しむのですが、小さい子供たちに「乗りたい」といわれると、ちゃんとゆずってあげているとのこと。そのことを、職員さんたちに、すごく褒めてもらったそうです。お話から、施設の方々に、大事に見守っていただけていることが、よく伝わってきて、ほんとうにうれしくなりました。
お話のあと、あだきち君の施設の駐車場で、車を出す前に、iPhoneをちょっと開いて……ニュースを知りました。
相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」、入所者刺され19人死亡 26歳男逮捕
きっと、続報がたくさん出るのでしょうから、ニュースサイトにリンクは貼りません。
ツイッターのトレンドも、この事件に関する言葉で占められています。
報道を見てすぐ、神奈川に住んでいる、お友だちの息子さんのことを思いました。
無関係だったろうか。巻き込まれていないだろうか。。。
事件の概要を読んでみると、150人が居住する施設とのことでした。
お友だちの息子さんは、たしか自宅から作業所に通っていたはずなので、きっと巻き込まれてはいないと思いましたけれども、事件を知って、どれほど心を痛めていることか。
もう何年も前から、いつか、こういうことが起きるのではないかと、ずっと危惧していました。
あだきち君が、地元の小学校の支援学級に通っていたころも、支援学校に移ってからも、そして福祉サービスで、いろいろな場所に出かけるようになったときにも、学童で過ごすようになったときにも。
インターネットで重度自閉症の情報を集めるようになってすぐ、ネットの世界に、知的障害者に向けられたヘイトの言葉、それも存在そのものを否定する思想が、あふれるほど書き込まれていることを、知りました。
いまでも思い出すのが、はじめて見た2ちゃんねるに、「婚約者の兄弟が自閉症なので処刑してほしい」と訴えていた、適齢期の女性(自称)の書き込みです。義理の親となる予定の人に、暗に介護の手伝いを要求されているような気がするからというのが、書き込みの理由だったようでした。
いわゆる釣りという記事だったのかもしれませんが、たとえ当事者ではなかったのだとしても、「処刑」という言葉を、ためらうことなく書けるものなのだなと、そのことに心寒くなる思いがしてなりませんでした。
その後、ネット上にはいくらでもそういう言論があるのだと知るに至り、すっかり慣れてしまいましたけれども、世の中には一定数(かどうかは分かりませんが)、そういう言論を匿名で行うことに、何の抵抗も罪悪感もない方々が存在しているのだという思いは、常に心のなかにあります。
そして、それが、ネット上での言葉だけのことで済んでいるうちは、まだマシなのだということも、不本意ながら思うところではありました。
#障害者なんていなくなればいい
事件後に出頭したという犯人は、上のように言っていたとのこと。
何があって、またこの人自身にどのような問題があって、そのように思うに至ったのか、これから分かってくるのでしょうか。
でも、私が気になるのは、この人の個別の問題よりも、この言葉が今後、どのように世の中に響いていくのかということです。
障害者なんていなくなればいい、という言葉の対極にあるのは、インクルージョンの考え方だろうと思います。
障害があってもなくても、誰もが社会のなかで居場所を見つけ、ともに支え合いながら生きていける社会……インクルージョンについて、そのように書くと、ただの夢物語でしかないように思えてきますが、その夢物語を、根元から切って捨ててしまったとき、そのむこうがわに現れてくるのは、一体何であるのか。
誰もが、生きている限り、障害や病気などのハンディを持つ可能性があります。
自分ではなく、自分の家族、大切な人が、重い障害や病気などのために、とてつもなく生きにくい状況に置かれる可能性は、どなたにも存在しています。
「障害者なんていなくなればいい」、その願いが叶った先に現れるものは、生きたいと願っている人が生きられなくなる、あるいは生きられなくされてしまう、ディストピアであるかもしれません。
16年前、あだきち君が重度の知的障害があるとわかってすぐに、今後生きていく世の中が、少しでも明るく、優しいものになることを願いながら、ずっと療育に励み、できる限りのことをしてきました。寄り添ってくれる人々、仲間と、楽しく暮らせる大人になってほしい、そういう思いからでした。
また、そうして暮らしていくなかで、知的障害者の問題が、隔離された限定的なものではなく、いろいろな意味で多くの人々、多くの社会の側面に繋がるものであることを、私たち家族は身をもって理解するようになりました。
「障害者なんていなくなればいい」と、心のどこかで思っている方には、その願いだけが叶ったとしても、その先に、結局のところ幸せなど何もないのだということに、いつか気づいてほしいです。
私が、ここに、こういうことを書いても、あまり、何も変わらないことでしょうけれども……