2016年2月11日木曜日

あいさつ

十二、三年前にやっていたホームページのhtml文書を、ハードディスクの奥底で、見つけた。

内容は、まだ幼児期だった子どもたちの育児記録がメイン。ときおり読書記録。
ちらちらと開いて見ているのだけど、若かった分、言っていることがちょっぴり青い。(*ノωノ)


おそらく自閉症であったろうと言われてる、山下清画伯の本を読んだ日には、抜き書きをして、こんなことを描いている。

-----------------------------------------------
 ぼくは人にあいさつしないので、えばっていると思われているかもわからないが、恥かしいからだまっているので、だまって帰っても心のなかではありがたいと思っている。ごちそうになってもお礼はいわないが、心のなかではうまいうまいと思っている。あいさつはしつけないとできないものなので、やりつけないことをやるのはぼくにはとても恥かしい。 
 世話になってもだまっているのでえばっているようでも、心ではうれしいのです。

山下清「日本ぶらりぶらり」ちくま文庫 p17


 こういうことを言われてしまうと、「あいさつをしつける」ということが、とても、つらくなる。
 規格のきまったシールのような「ありがとう」を、コミュニケーション障害の子供に百万回いわせて「しつける」ことで、子供はよけいに沈黙を選びはしないだろうか。個別的な意味をうしない、強いられて出る「ありがとう」という音声に、口に出すだけの価値が果たしてあるだろうか。口だけの沈黙よりも、心のなかの沈黙のほうが、おそろしい。
-----------------------------------------------


障害の重い子に対する形式面での強い「しつけ」が、内面の言葉を抑圧してしまわないかという思いは、いまもある。「しつけ」がただの「おしつけ」になるのは、とても苦しくて、嫌なことだ。


ただ、子どもたちが大人に近づいてきた今は、社会に出たときにそとに見せる形、形式的な行為というものも、本人たちにとって大切なものだと思っている。

幼児期から、ほんとうに根気よく、挨拶することに取り組んできた息子は、18歳になったいま、挨拶の言葉をかけられれば、それに応えることができるようになにっている。

まだ、目を合わせるのは難しいこともある。声もなかなか大きくならない。
自分から挨拶をすることは、いまもかなりハードルが高い。

それでも、控えめな声色で、クラスメートや先生方に「おはよう」と挨拶を返す息子の表情には、やわらかで楽しげな気配があって、決して気持ちを抑圧して機械的に声を出しているのではないと思える。

周囲の人々への信頼の気持ち、いろいろな思い出の積み重ねが、挨拶の言葉や態度の内側に、しっかり存在しているのだと思う。


あいさつは、いいものだと、いまの私は思っている。
なので、古い記事に新しい気持ちを添えて、再掲載してみた。



他の記事も掘り起こして、再利用してみようかな。

(山ほどあるし…)