pixabayで「平和」で検索したら、この猫さんが出てきました |
朝、絵画教室の駐車場に車を止めたら、ぐらぐら揺れました。地震です。
教室が終わって車に乗り込み、運転をはじめる前にiPhoneを開いて眺めていたら、死者を出したO15感染についての続報や、「日本列島を核で海に沈めるべき」という北朝鮮の声明などが、目に飛び込んできました。
別に今日に限ったことではありませんが、おだやかな、心温まるような話は、なかなか見当たりません。
(´・ω・`)
学校で、世界の歴史を習いながら感じたことは、戦争や革命、テロなど、人為的に多くの人の命が失われるような事態が起きるときには、そういう事態を招き寄せてしまうような、構造的なゆがみや歪みが、社会全体のなかにあるということです。
そういうふうには、学校の先生は教えなかったような気がしますが(授業をまじめに聞いていませんでした(^_^;)、事実の並び具合を普通に見ていれば、誰しも自然と感じることだろうと思います。
差別や貧困は、苦しんでいる当事者が、社会のなかでマイノリティだったり、物理的・精神的に遠距離であるうちは、容易に無視されますが、そうでなくなった途端、よくも悪くも、社会を変えようとする大きな力が生み出されてしまうものではないかと思います。
誰だって、貧しい暮らしに追いやられたり、侮辱されたりしながら、苦しみつづけるのも、殺されるのも、嫌ですから。
国というくくりは、ほんとうに面倒な、難しいものだなと思います。
国民の多くが、自分が不幸なのは「国」のせいだと思えば、力はいずれ「国」そのものをどうにかする方向に向かうでしょうが、「国」の側が先手を打って、「うちが不幸なのは外国のせいだ」という方向に、国民をぎゅっとひとくくりに締め上げれば、国が内側から壊れてしまうことは、防げるかもしれません。
そのせいで、日本の上空を、気持ちのよくないミサイルなどが通過していっているのかな…というのは、ものすごく短絡的な考え方かもしれません。そんな「国」が、内側をぎゅうぎゅう縛って外側にミサイルを飛ばすようになってしまったことにも、やはりその「国」だけの問題では片付かない原因があったわけでしょうし、その原因となった事態も、さらにさかのぼったところに、よんどころない歪みがあったから引き起こされたのでしょうし……
歴史の流れのなかでは、一つを間違うと、いつまでも、どこまでも負の因果が続くのだとすれば、これほど救い用のないことはありません。
なんとかならないものですかね。
ヨハン・ガルトゥングという、社会学者でも数学者でもあるノルウェーの人が、私がつたない頭で考えた、社会の歪みのことを、「構造的暴力」という言葉で説明して、そのような暴力のない状況を「積極的平和」とする、と言っているそうです。
著書がいくつも翻訳されているようなので、そのうち、読んでみようと思います。
平和を作り出す方法が書いてあるかもしれませんから。