問題の画像は、これ。
どこも「不適切」じゃないと思うんですけども、何度やってもダメ。
ところが、この画像を横にすると、Twitterは普通にUPさせてくれるんです。
縦だとダメで、横だとOKとは・・・・。
Twitterさんは、もしかすると、私がiPhoneで撮影した「ムンクのシリコン型」を、ろくでなし子さんが頒布したものと同系統の3D芸術ではないかと判定しのではなかろうか・・・・
ちがいますから。
これ、どっからどう見ても、ムンクの叫びですから。(´・ω・`)。
Amazonで普通に買えますから!
( _ _ ).。o○
ジャミロクワイの「Automaton」というアルバムのPVを、iTunesで眺めています。
なんか、どっかの水爆実験みたいな映像から始まっていて、不穏な感じですが、そういう国際政治に触れるような感じではなく、未来社会で人工知能が向かう先の不安定さを危惧するような歌詞なのかなと想像します(英語あのれ聞き取れませんorz)。
ヒヤリングの非力さを補うために、Google Play Musicに載っていた歌詞を読んでみました。
文字になってもなお、英語の歌詞って、理解しにくい……orz。
オートマトン(Automaton)、というと、自動羊、ではなくて(羊はmutton)、自販機とかお掃除ロボットみたいな単純な動きをする機械を連想しますが、この歌のAutomatonは、強い意志と、寄る辺ない不安定な感情を持った高性能なアンドロイドといったイメージです。
どことなく、月曜日に見た実写版映画「ゴーストインザシェル」と重なる印象。
( _ _ ).。o○
そういえば、日野皓正氏のビンタ事件は、危惧したように、ものすごく面倒なことになってしまった様子です。
現状では、日野氏のビンタを非難するのか容認するのかという話を抜きにして、彼らの音楽について、(ネット上で)語ることが、難しくなってしまっています。
区長まで叩かれている状況では、世田谷区の教育委員会も、このコンサート企画の継続は、難しいのではないでしょうか。
そういう意味でも、殴ってしまったのはダメだったなあと、やっぱり思います。
私は暴力なんか大嫌いですし、教育目的を理由に手を上げる人のことも全く尊敬できません。
作家の井上ひさし氏も、前の妻への凄惨なDVが一般に知られるところとなって以来、氏の本に触るのもおぞましいような気持ちになってしまいました。作品と作者の人生は切り離して考えるべきというのは分かっていても、創作のためだといって、骨折させられ、顔がぶよぶよになるまで殴られた前妻の話を知ってしまっては、そうゃって書かれた作品を読みたいという気持ちには、どうしてもなりません。
では、作家が妻に暴力を振るいながら書いた作品には、文学的な価値などないのかというと、そこは話が違うわけで、「読みたくない」という気持ちは、作品への評価とは無関係のない、私自身の作者に対する嫌悪の感情からくるものであることははっきりしています。
それに私、太宰は読むんですよね。
殴るどころか、二股三股の浮気で妻を苦しめただけでなく、心中で女性を殺しちゃってる人なのに。
あ、もちろん嫌いです、太宰。嫌いだし、擁護する気などみじんもありません。
それなのに太宰作品を読むのは、作品そのものに読むべき価値を見いだしているからです。
井上作品を読みたくないのは、太宰よりも世代が近いこともあって、流布されているスキャンダルが、より生々しく感じるからかもしれません。
この問題、暴力禁止というだけでは、何も片付かないだろうなあと、改めて思いました。