あだきち君、今日は介護施設では、ちょっと甘えん坊だったとのこと。
帰宅のときにお世話になった方によると、なんだかしょんぼりして、遊びにも乗り気ではなかったそうです。
食欲はあるし、体調も問題なさそうなので、なにか悲しいことでも思い出したのかもしれません。
漢字の練習
あだきち君の、漢字の練習プリントです。
介護施設での自習時間に一人で書いたもの(最初の画像)は、文字が崩れてしまって、判読が難しいものも多いです。
介護施設で一人でかいたプリント |
連絡帳も書いてきてくれるのですが、こういう書体ですので、本人でも読めない日もあり、家族で解読しています。
下の画像は、今朝、私と一緒に書き取りの練習をしたもの。
鉛筆を握っている手の甲に、かるく指を置いてやるだけで、手元に意識がよく集中して、読める文字を書けるようになります。
自宅で一緒にかいたプリント |
介助なしでは読める文字を書かかないのは、集中力の問題だけでなく、あだきち君自身、他人が読めるように書くという意識がないからかもしれません。
それは、文字が、自分以外の誰かに気持ちを伝えることのできる、コミュニケーションの道具であるということが、本当にはわかっていないということでもあります。
そういうことを、どうやったら、あだきち君に教えることができるのか。
まだまだ、時間がかかりそうです。
療育手帳
今年は、あだきち君の手帳の更新の年にあたっています。
未成年のあいだは、更新のたびに、児童相談所で検査をうけていましたが、成人以降は、自治体が指定する病院に行かなくてはならないと言われていました。
病院への経路をgoogleマップで調べてみると、電車とバスで一時間半、自家用車だと一時間ちょっとかかるところにありました。
現在の私の体力では、往復二時間超の運転は、かなりきついものがあります。
(五十肩、老眼、更年期のあれこれ……orz)
といって、交通機関を使うのもも、不安です。
あだきち君と最後に電車に乗ったのは、もう五年ほども前になります。
もしも、駅のホームなどで、大柄なあだきち君がパニックになったら、私一人では、安全を守れる自信がありません。
暴れるようなパニックは、いまではほとんど起こすことがありませんが、慣れない場所では、どうなるか予測がつきません。
検査の日は病院から指定されるということで、ゆううつな気持ちで連絡を待っていたところ、昨日、障害福祉課のほうから、電話がありました。
「これまでの経過から判断して、今回、検査の必要はないとのことです。あだきちさんは、これまで通り、マルA(最重度)判定ということになります」
正直、ホッとしました。
東田直樹さんの絵本
東田直樹さんの「ぼくの世界」という絵本を、Amazonの、Kindle読み放題サービスで見つけたので、さっそく読んでみています。
「自閉というぼくの世界」(Amazonで見る) |
テレビのドキュメンタリー番組などで見る、東田直樹さんの様子は、あだきち君の普段の姿と、とてもよく似ています。
だから、東田さんの、次のような文章を読むと、あだきち君も、こころのなかでそう感じているのかもしれないと、思わずにはいられなくなります。
ぼくが やることは
人に話しかけることではなく
光や風と 遊ぶことでした。
光は いつも ゆらゆらと
目のおくまで 入ってきて
見ているものを へんかさせます。
それはまるで
さそわれておどる ダンスのように
ゆったりと
それでいて 三拍子のリズムのように
きそく正しく
ぼくの心を おどらせました。
そよふく風も
あらしのような台風も
ぼくの 友達でした。
風はいつも ぼくといっしょに いてくれます。
楽しい時 風は ぼくのそばで
クルクルと 笑います。
ぼくも 手を肩から ぐるぐる回して
「きょうは 雲が はやく動くね。
きみたちは どこへ行くの。」
と 笑い返します。
(「自閉というぼくの世界」より)
よく晴れた日の公園で、空を見上げるときや、風に吹かれているときの、あだきち君の表情は、ほんとうに幸せそうで、声に出して笑っていることも、よくあります。
けれども、知らない場所に行かなくてはならないときや、外出中に、次の予定がどうなっているのか、よくわからないときなど、あだきち君は、不安を抱えきれなくなるようです。
(「自閉というぼくの世界」より)
ぼくは きっと みんなとはちがうのでしょう。
少しのことにも 大声で泣き
うまく 名前を言うことすら 大変です。
この世界は
ぼくたちのような しょうがいがある子にとって
とても不安で
かかわりにくい世界です。
東田直樹さんの著作は、私にとって、あだきち君の心を推しはかるための、大きな道しるべです。