2016年9月30日金曜日

腎臓透析をする難病患者に「死ね」というジャーナリストのブログを読んで









数日前、長谷川豊さんという、アナウンサーのブログを見て、ショックを受けました。




タイトルは、炎上後に改変されたようですが、もともとは、


自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!
無理だと泣くならそのまま殺せ!
今のシステムは日本を亡ぼすだけだ


という文字列だったようです。




もうかれこれ18年も、腎臓病患者の母親をやっているのですから、この記事を到底見過ごすことは、できません。





■あらゆる病気は、自業自得の度合いを簡単に判定できるほど単純ではありません





自業自得」
「無理だと泣くならそのまま殺せ!」



長谷川豊さんのブログ中では、一部の透析患者さんに対して、劣悪なイメージをなすりつけるような記述がありました。


医師の指示を聞かず、自堕落で享楽的な生活を続けた挙げ句、治療費の全額を国に負担させている…と。



そういう強烈な煽りに、賛同する人が多数おられました。




すでに指摘している方々がおられますが、こうした煽りの部分だけ見ますと、相模原の大量殺人事件の犯人を思わせるような思考しか感じられず、身震いがしました。



長谷川豊さん本人は、本当に「自業自得」の患者だけを攻撃し、原稿の医療保険や障害年金のシステムに対して、"真摯な問題提起"をしたおつもりだろうと思います。



けれども、大勢の人の目にふれた、この言論は、もともと腎臓病にも透析にもさして興味のない、詳しい知識も、透析を受けているような身近な知り合いもいないような人々にとっては、



透析患者 → 税金の無駄



という、負の部分だけが、刷り込まれていく可能性があります。


そして、ネット上の風評を眺めていると、そうした負のイメージに乗ってしまった、残念な発言が増えている印象があります。


そうした発言は、知的障害者を殺害した犯人をヒーロー視する発言と、同じ匂いがします。


長谷川豊さんの言論に対して、「正義の皮をかぶった扇動」とする意見を読みました。


“自業自得な人工透析患者”批判が粗雑で残念な理由

2016年9月28日 藤田孝典 / NPO法人ほっとプラス代表理事
http://mainichi.jp/premier/business/articles/20160927/biz/00m/010/006000c


一部、引用させていただきます。
 改めて長谷川氏の文章を読みました。思い込みや勘違い、混同、伝聞、他人のブログからのコピペがふんだんに盛り込まれ、とても医療や社会保障システムを論ずるレベルの文章ではありませんでした。透析患者を「だらしない人間」「自堕落」と恣意(しい)的に規定し、「私たちのお金を彼らの治療にあてるのは許せない」と拳を振り上げてみせる、かなり計画的で悪質な“扇動”文章です。
 残念なのは、このずさんな意見に賛同するコメントが多く見られること。社会を分断しかねないアジテーションに、同意の歓声が上がっているのです。「貧困バッシング」「生活保護バッシング」と同じ構図です。
 今回は人工透析患者がやり玉に挙がりましたが、矛先がいつ自分に向かうかもしれないと考えると、怖くなりませんか。


まさに、そのような怖さを感じました。


現に我が家には、介護施設に通所しているあだきち君や、長年にわたって、小児慢性特定疾病の医療補助を受けてきた、あねぞうさんがいます。


あねぞうさんは、二歳で腎臓病を発症しています。
薬が効きにくく、なかなか寛解しないタイプだったため、幼少期は、再発のたびに長期入院を繰り返していました。

その入院、治療の費用は、初年度だけで、おそらく数百万円という金額になっていたはずですが、医療補助のおかげで、家計の負担にはなりませんでした。



お金がかからないからといって、再発をしても安心などと、考えられるものではありません。

完治の可能性があるのかどうかもわからず(だから難病に指定されるのですが)、強い副作用のある対症療法を繰り返す苦痛は、本人も家族も、計り知れないものですから、なんとしても、再発を防ごうと、あらゆる努力を続けました。


それでも、再発してしまうのです。



再発させてしまうたびに、


「あれが悪かったのではないか」
「こうしなければよかったのでは…」

と、思い悩みつづけました。



あの苦しい時期に、今回の長谷川豊さんの言論を目にしたら、どれほどの苦痛を受けたか、わかりません。



自業自得」
「無理だと泣くならそのまま殺せ!」



いかに社会のシステムへの問題提起だったとしても、この言葉は、世の中に送り出されるべきではありませんでした。


苦しんでいる人間に向かって、痛みを持たない安全な立場から、きつい存在否定の言葉で追い打ちをかけて、社会制度が何か良い方向に変わるということが、あるのでしょうか。




医療費を圧迫する難病患者が、「殺される」「いなくなる」「命の保証をされなくなる」ことで、世の中が良くなるのでしょうか。




長谷川豊さんが、自堕落だと決めつけている患者さんたちは、もしかしたら、過重なストレスに耐えながら、会社のため、家族のために、懸命に働きつづけてきた人々かもしれません。


あるいは、明確な遺伝由来ではない、もっと別の複雑な理由や事情から、糖尿病や腎臓病を発症しやすい状況におかれてしまっている人々かもしれません。


医療費を支えるシステムが破綻寸前であるなら、「殺せ」ではなく、なぜ、これほど多くの人々が健康に生きられないのかを、精査する必要があるのではないでしょうか。




そして、「みんなで真剣に健康になろう」という声がけをされるのであれば、


私は文句なしに、賛同したであろうと思います。