2002年6月18日火曜日
【過去日記】またしても、いろいろ
※この日記は、すでに高校を卒業した息子が幼児だった頃、記録として書いていたものです。当時掲載していたホームページは、すでに閉鎖していますので、手直しして、書いた日時の記事として、再掲載することにしました。(2016/04/16)
早くも日記のタイトルを考えるのが面倒くさくなっている。
前もこんなだったっけ。
そのうち、ちゃんと目次とか索引とか作ろうと思ってるのに、毎日「いろいろ」じゃ退屈である。どうにかしよう。
昨日、療育に出る前に、息子が読書に熱中していて、本を手放さなかったので、そのまま本を持って出た。
気が短くて、次から次へと興味が移り変わり、うろうろすることの多い息子なのだが、本当に集中できるものに出会うと、こんどはテコでもその場から動かなくなる。
ちかごろは、本に集中することがとても多くなった。
読み方も変わってきた。前は、ただページを開いて眺めるだけだったのだが、このごろは、指差ししながら文字を追うことが多くなった。以前なら、親が読み上げてやると嫌がったものだが、このごろは素直に聞いている。聞くことが、だんだんラクになってきているのかもしれない。
杉元賢治「大追跡!!アインシュタインの天才脳 (講談社SOPHIA BOOKS) 」という本に、アインシュタイン談として、次のような話が載っている。
「私は書くことが苦手でしたので、読むと同時に言葉を聞き、この方法でかろうじて私の意志を伝えることができました」
一見、とても分かりにくい言葉である。アインシュタインは、喋ったり、書いたりせずに、「読んで聞く」ことだけで、意志伝達をしていたというのである。「読む」ことも「聞く」ことも、情報の受容であり、発信ではない。これだけで、どうやって意志伝達ができたのか、想像するしかない。回りの大人が筆談しながら話しかけてくるのを、「読みながら聞く」ことによって内容を理解し、身振りなどでYES,NOの意思表示をしていたのかもしれない。
何で読んだのか忘れたが、大人になった自閉症者の言葉で、印象深いものがあった。その人は、
「子供のころは、聞こえてくる言葉がすべて、虫食いだらけの本のようだった」
というのである。誰かに話しかけられても、単語がデタラメに、途切れ途切れに聞こえるだけで、ひとつながりの完成した文として聞こえてこないというのである。聴覚に関連した脳の機能の異常が、こういう現象を引き起こすらしい。多くの自閉症児が、このような不完全な「聞こえ方」であるために、言葉が遅れるのだという説もあったように思う。
息子も、たぶんそのように聞こえているのだと思う。
息子は、個人レッスンを受けているときに、よく隣の教室の先生の声に部分的に反応してしまっていることがある。普通の聴覚の持ち主ならば、目の前の先生の声と、隣の教室の声とを区別することは簡単だろうが、息子にとっては難しいのである。複数の音源から、交互に、とぎれとぎれに言葉が聞こえてくるのだから、さぞかし鬱陶しいことだろう。
人間の耳というのは、聞きたい音だけをクローズアップして拾いつづけることができるようになっている。騒がしい教室のなかで、隣の人とこそこそ話をできるのも、うるさい雑踏のなかで自分の名前を呼ばれたときに反応できるのも、何を聞けばいいのかという取捨選択が出来るからである。息子には、それが難しい。
それでも、このごろは、聞き分けの技術を自分なりに身につけつつあるようで、隣の教室の説教で泣くということはなくなった。
慣れもあるのだろうが、脳の機能が少しづつ改善されてきているのではないかという気もしている。「聞き分け」の技術を身につけはじめてから、騒音などでパニックを起こすことがなくなっているからである。