2000年1月3日月曜日

オリヴァー・サックス「妻と帽子をまちがえた男」より





 時間には、外向きの、空間的に広がるものと、内向きの時間との二つがあるといえよう。ジミーは、外向きの時間の世界ではまったくの迷子だが、ベルグソンのいう「内部時間」においては、完全にまとまりをもっている。外的なかたちや枠の上からいえばとりとめなく、あてにならないのも、芸術あるいは意志としてはそれなりに整合し、まったく安定が保たれているのである。そればかりでなくジミーのなかには、長い間持続し、失われることなく生きつづけてきた何かがあった。仕事やパズルやゲームによっていっとき支えられ、頭脳的な挑戦を受けてしゃんとすることはあっても、それらが終わってしまえば、たちまちふたたび無の世界、忘却の淵へと沈んでしまう。だが情緒的精神的に注意集中がおこなわれている場合、つまり自然や芸術に目を向けているときとか、音楽に耳を傾けたり、チャペルでミサにあずかっているときには、一様で平静な注意力がしばらくのあいだ持続し、ほかの時はめったに見ることができないほどの落ち着きと平和がジミーにおとずれるのだった。

   オリヴァー・サックス「妻と帽子をまちがえた男」 晶文社    p82-p83




 ジミーという男性は、コルサコフ症候群という病気のために、ものごとを数秒も覚えていられない。そのため時間の流れのなかで自分を見失い、秒刻みにバラバラになっていく支離滅裂な人生を送っていたのだが、宗教的感動や芸術の中では、人格的なまとまりと人生のリアリティを取り戻し、病気から解放されるという。

 脳の異常のために失いかけていた自己や人生を、芸術や宗教のなかでのみ取り戻すことができるということを、どう受けとめればいいのだろう。それは誰の人生(脳)にも保証されている最後の救いと考えていいのだろうか。それとも、それすらもやはり、不幸中の幸運に恵まれた人にのみ許される特権なのだろうか。


************************************

 知的な成長の期待できない障害児には、「芸術」でもあてがっておけ、ということを、安易に口にする人は多い。

私はそういう考え方には反発を感じる。

おそらくは周囲から指示されて、「障害者の芸術作品を展示する」ためだけに描かされたと思われる絵画などを見ると、心が寒くなる。それをまた「障害者の製作物だから」という理由でスポットライトを当てて、もてはやすのを見ると、物も言えない気持ちになる。

私も人の親であるから、そうした製作物を批判する言葉が、誰のどんな心を突き刺すものであるのかも承知している。

けれども敢えて言いたい。そのひとの人生は本当に、ベニヤ板に濁ったペンキをなすりつけただけのものなのか、と。誰か、言葉を話さない製作者のかわりに、彼の人生をよく知っているはずの人が、「この人の心にあるものは、いまここでは表現しきれないほど、豊かですばらしいものです」と、声を大にして、言いたくはならないのだろうか。


 ジムがコルサコフ症候群から解放されたのと同じように、できることなら、すべての知的障害者を障害から解放するような芸術が存在してほしいと思う。そういうことを望まずに、障害者に芸術を「あてがう」という行為を、やはり私は拒否したい。





※2016年2月11日追記……ずいぶん青いことを書いていたなあと、反省。