2000年1月3日月曜日

オリヴァー・サックス「妻と帽子をまちがえた男」




 ついに彼は話しはじめたただし「話す」と言っていいものかどうか。実際は奇妙なたどたどしい音、ほとんど聞きとれない発話でしかなかったのだから。それにしてもわれわれはみな、彼自身もまた、おどろいた。なぜなら、ホセも含めわれわれはみな、能力がないためか、気乗りしないためか、あるいはその両方が重なったためか、彼はまったくしゃべれず、それを治すことはできないと思っていたからだ(しゃべらないということは、事実であると同時に精神的な構えでもある)。 
 (中略) 
 われわれが彼の生理学的な発話能力を向上させてきたことは確かだ。そうはいっても、彼には、発話する能力と相手の話を理解する能力に欠陥があり、これから先もたえずそれと闘わなくてはならないだろう。しかし重要なことは、彼が人の話を理解しようとし、自分も話せるようになろうと努力しはじめたということであ(われわれ全員がそれを応援していたし、言語療法士による指導も行われていた)。以前の彼は、話せないという状態を、希望もなく自虐的に受け入れていただけだった。だから、ことばやその他の手段による他人とのコミュニケーションすべてにそっぽをむいていたのである。話すことができないことと話すことを拒んできたことが、二重に病気を悪化させていた。

 オリヴァー・サックス「妻と帽子をまちがえた男」 晶文社    p381-382


言葉を話そうとしなかった自閉症の男性が、話言葉を獲得しようとしはじめた。「しゃべらない」という事実は、必ずしも脳の異常だけで説明できることではないということを示す事例だろう。



※以下、2016年2月11日、追記

「しゃべらない」という「精神的な構え」には、外から働きかけて、変えていくことができる。
上の抜き書きをしたころ、一語文すら話すことが稀だった息子は、この十六年後、三語文、四語文を使って、気持ちや意志を伝えようとするようになった。