2019年6月4日火曜日
「白身魚」が「自身魚」になる理由
介護施設に通うあだきち君は、連絡帳に、ときどき、お昼のメニューを書き取ってきてくれます。
でも、字がかなり乱れていて、読み取れないことも結構あります。
昨日のメニューも、かなり判読困難だったのですが、そのカオスのなかで、はっきりと読み取れたのが、これでした。
自身魚
謎の造語です。
深く意味を考えると、めまいを起こしそうな単語を、あだきち君は作ってしまいました。
なぜ、こんなことばが生まれてしまったのか。
連絡帳のあだきち君の文字を、じーっと見ていたら、たんなる見間違い、書き間違えではない奥深さがあるように思えてきました。
ちなみに、自宅用にも配布されている献立表には、「白身魚」と書いてあります。ミスプリで「自身魚」になっていた、なんてことは、ありません。
そして、あだきち君は、「白」という漢字が書けますし、読みも意味も知っています。
小学校のころ、「赤」「青」「黄」「茶」「黒」「白」などの色の漢字を、数年にわたって練習を続けて、しっかり覚えていますし、いまもその知識にゆらぎはありません。
だから、「白身魚」を写し書きするのに、見た通りに書かずに、わざわざ「自身魚」と書くのには、あだきち君なりの理由があるはずです。それは、なぜなのか。
・「白身」という単語を知らない
・「自身」という単語は、なんとなく知っていた
・「自身」と「魚」を続けて書くことへの違和感、意味の不整合性への気づきを持たない
こう書くと、身も蓋もありませんが、ここからもう少し深く考えてみると、日々の暮らしのなかで、あだきち君がことばの世界に感じているとまどいや、不都合さが、見えてくるような気がします。
あだきち君が習得していることば(単語)は、ごくごく限られたものです。
正確に数えることは難しいですが、「聞いて、だいたい意味をつかめる語」を全部入れても、おそらく、200語くらいではないかと思います。
そして、その大半は、「りんご」「みかん」といった、具体的なものの名前、名詞です。
次に多いのは、「立つ」「歩く」「走る」など、あだきち君自身の動作をいいあわらす動詞です。
形のないものについてあらわすことば、感覚、状況などをあらわす言、抽象概念や、総称、代名詞的な用法の単語は、自分から使うことは、まずありません。
「自身」という単語も、使ったのを見聞きしたことはありませんし、おそらく意味を正確に把握しているわけではないと思います。
ただ、「自分」という単語はよく知っているので、その関連のことばとして、記憶しているのかもしれません。
そして、「自分」「自身」など、「自」ということばにかかわる日常的な状況について、あだきち君の意識は、強く反応する傾向がある可能性があります。
小さいころから、
「自分でやろう」
「自分のを持ってきて」
というように、「自」強くを意識させられるようなことばがけをされる機会は、とても多かったはずですし、それは介護施設に通ういまも、あまり変っていないと思います。
連絡帳も、あだきち君が「自分で書く」ものです。もしかしたら、介助してくださった方も、
「ここ、自分で書いてみてね」
と声がけしてくださったかもしれません。
そういう暮らしのなかで、献立表のなかに、「白身魚」という文字列を発見したとき、あだきち君は、食材としての魚ではなく、「自」を想起してしまったとしても、不思議ではないように思えます。
あだきち君は魚料理は大好きですが、もともと総称が苦手ですので、サバ(味噌煮・缶詰)、カツオ(たたき)、サケ(切り身のバター焼きか石狩汁)という名詞はよく知っていますが、「さかな」ということばでそれらをまとめて言うことは、ないのです。つまり、あだきち君にとって、「魚」は、印象の薄い言葉である可能性があります。
あだきち君の「自身魚」は、このようにして生み出されたことばであるように私には思えます。
そして、あだきち君のことばの習得がなかなか広がっていかないのも、このような言語感覚に由来するものだと思えます。
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