2017年9月7日木曜日

切れ端読書日記 「生の技法」をちょっぴりだけ読んだ

かわいらしい革製のしおりは
「すてあーず」という就労継続支援B型の施設で制作されたものだそうです。





数日前に届いた本。

安積純子 立岩真也 岡原正幸  尾中文哉  著

生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学

生活書院

文庫版で、あとがきも入れて、663ページあります。

読むことの苦しい読書になるだろうなというのは、分かっていて購入しました。

とくに第四章「施設の外で生きる  福祉の空間からの脱出」では、生活の場としての福祉施設の抱える、多くの闇の部分や、入所者だった方々の呪詛にも似た批判の言葉が、取材されて、書かれているはずです(こらえしょうがなく、四章を先にナナメ読みして一部確認)。


施設の問題が、虐待や差別ばかりではないということは、以前、肢体不自由の障害者による講演会に参加して、詳しいお話を聞いたことで、知っていました。



その講演者の方々は、食事や排泄を含む生活全般に介助が必要なお体の状態でしたが、養護学校卒業後に入所した生活施設を退所して、福祉サービスを利用しながら、一人暮らしをされているとのことでした。

施設の何が、具体的にどう不満であったのかは、あまり明確には言葉にはされませんでしたが、退所して「一人暮らし」をすることが大きな希望であったということを、強く語られていて、そのために、施設で生涯を送ることの苦しさが、浮き彫りにされてくるのを感じました。


施設の運営方針のもと、強く管理されること。
保護のために外界から隔離され、積極的に外の世界に関わる自由がないこと。
大人としての自然な意志を、頭から否定され、認められることが少ないということ。



そうした状況に置かれつづけることは、知的な問題を持たずに成人された方々にとっては、絶望的な苦しみであっただろうと想像されます。

施設での虐待や、不適切な対応がなかったとしても、やはり苦しい場所であったはずで、だからこそ、「一人暮らし」を実行するに至ったのでしょう。


なぜなら、「虐待」や「待遇の悪さ」がなかったとしても、「管理」や「隔離」がある限り、内部には現実の一元性・避難所の不在・アイデンティティの剥奪・服従する生活などの様々な「住みにくさ」が生じ、かつ施設外の領域にも「健常者」/「障害者」という区別が生み出されるからである。
(「生の技法」文庫版 p183)


知的な発達障害のある場合にも、同じ問題に必ず直面するのではないかと思います。

あだきち君は、重度の広汎性発達障害で、会話はほとんど困難であり、二~三歳児程度の生活スキルしかありませんけれども、自分らしく人と関わることや、新しい出会いが大好きな青年です。

将来的には、あだきち君も、生活の場としての施設に入ることになるだろうと思いますけれども、個として認められず、人と人とのつながりが薄く、管理の度合いの強いタイプの場では、おそらく気持ちが持たないだろうと思います。


健常な大人たちですら、社会のなかで疎外されて、深く病む場合も多い世の中です。

施設に暮らす障害者たちが、人として健やかに生きるための条件をすべて得られるようになるには、社会全体が、いまの状況からは想像できないほど成熟していかなくてはならないだろうと思うと、気が遠くなるような思いがします。

ネットで障害者の話がでると、生産性を持たない存在であることを批判し、おぞましい言葉で侮辱するような匿名の声が、少なからずあがってくるような現状が、いつの日か、よい方向に大きく変わることがあるのかどうか……


あると信じて、自分にできることをしていくしかありません。


あ、上の「生の技法」は、文庫版を買うと、本文のテキストデータをもらえるようになっています。巻末に引換券が印刷してあって、それを編集部に送ると、折り返し送ってもらえるようです。詳しくは本書をご確認ください。

ん?
なぜ電子版で出さないのかな……