2017年9月8日金曜日

「生の技法」の拾い読み…


pixabayからお借りした、にゃんこ。本文とはとくに関係ない。


外出中の読書は疲れてしまうので、なるべく控えているのですが、病院の待ち時間があまりにも長いので、「生の技法」をまたちらちらと拾い読みしていました。

(前回の読書記録 → 切れ端読書日記 「生の技法」をちょっぴりだけ読んだ)

読んだところから、少し引用。



「車椅子で介助してくれてる女の子がいるんだけど、いつも駅に行くときに『上げてください』って言うわけ。『あの車椅子を上げてください』って。彼女がね、でも、私は三回ほど我慢したわけ。彼女が変わるまでっていうか、自分で気がつくまでね。だけど三回目にね、『車椅子上げてくださいじゃ、私が乗っていないみたいだって、私が上がるんだから、私の立場にたって、上がるのを手伝ってくださいとか、上がりたいんだけど手を貸してくださいとか、そういう言い方にしてくれ』って言ったらば、すごくわかる子だから、『あっ、ごめんなさい、すいませんでした』って言ったんだけど、また次のときに、『これ上げてください』ってね」


こういった、介助者による障害者の意志や思いへの侵害は、自由に身体を動かせる者が「必要と思って」行う、無自覚的な性質を帯びている。この意味で、障害者の主体性に反する侵犯行為は、個々の介助者に起因するというよりも、より構造的な仕組、たとえば、行為の効率性を自明のうちに最優先させてしまう社会構造(まさに私たちが住む世界)に起因すると考えてもいいかもしれない。だが、主目的を実現するまでのプロセスで現れる、介助者のなにげないしぐさや発話は、それが無自覚的な表出であるだけに、かえって雄弁に、当人の本来的な居場所(障害者への関わりや位置)を表現してしまうことにもなっている。


「生の技法」(文庫版) 第5章 コンフリクトへの自由  介助関係の模索 P195-196



読んでいて、もやもやと胸の奥底から湧き上がる気持ちがあります。


私は障害者ではありませんが、世間的な価値基準のなかでは、わりと「使えない人間」に分類されるタイプであることを、自覚しています。それは、子どものころからそうでした。


どんな人にとっても、自分の意志や存在を、さも当然のように無視される経験は、とても心を傷つけるものであるはずで、そうした対応を、幼少期から恒常的に受けていれば、心の育ち方に、大きな悪影響を及ぼすことは、簡単に想像できます。


上の談話の方も、きっと、底知れないほどのやり場のない痛みを心の中にため込みながら、長い時間を送ってこられたのでしょう。それは私の体験などとは比べ物にならないほど、深刻であったはずです。


けれどもおそらく、こうした感情は、「人の世話になっているのだから(自分ではできないのだから)、そのぐらいは飲み込みなさい」という、常識的な圧力によって、もみ消されていくのではないでしょうか。


私は曾野綾子氏という作家さんが昔からとても「苦手」なのですが、曾野氏の著作「人間にとって成熟とは何か」のなかには、政治家の野田聖子氏について、


「自分の息子が、こんな高額医療を、国民の負担において受けさせてもらっていることに対する、一抹の申し訳なさ、か、感謝が全くない」


という、驚くべき批判が書かれているのだと、ネットニュースの記事で読みました。

AERA 衆院議員・野田聖子が語る「障害児の息子がくれたもの」
https://dot.asahi.com/aera/2016110400084.html?page=2



この曾野氏のような感覚を、おそらくは多くの日本人が共有しているはずです。国民の負担によって暮らしていくことに、「申し訳なさ」を感じるのが当然である、と。


そういう「申し訳なさ」を背負うことについて、背負っている側から、背負わせている側に異を唱えることは、とても難しいことであろうと思います。


「生の技法」が、こういう問題について、どんな考えを示しているのか・・・

タイトルの「技法」とは、どんな意味なのか。

早くもっと読みたいのですが、目が痛くてなかなか進みません。
紙の本、つらいです(T_T)。


あ、そうか。テキスト版を送ってもらえばいいんだった。
なぜそこを忘れていたのか(^_^;)。